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2013年12月26日

オリックスの背番号1の源流はサブロー

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オリックスと楽天の間で後藤、鉄平の交換があった。FAで引き留めた選手とかつての首位打者。共にチームの顔と言ってもいい存在で、両チームのファンにとってはショッキングなトレードになったと思う。

ところで後藤がつけていた背番号が「1」。オリックス・バファローズ、ブレーブスの初代背番号「1」が誰で、どんな選手だったかご存知でしょうか?

今回高松に旅するにあたって、彼の胸像や足跡を残したものなんかはないのかなぁ…と思ったんだが、どうもないみたい。後輩の方はあるんだけどね。

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こちらの水原茂と三原脩の銅像。香川県庁にほど近い、高松中央公園の中にあります。(昔ここに高松球場があった)

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水原茂の略歴。旧制高松商業学校時代全国優勝2回、慶応大学時代優勝5回と、甲子園で優勝2回、東京六大学リーグで5回も優勝しているんですよ!!
もちろんプロに入って、選手としてよりは監督として最高の実績を残した。高松中学出身の三原は、早稲田−巨人と進み、その後は巨人以外の監督になり、つねに巨人・水原と対峙し2人の対決は「野球巌流島」などと持てはやされた。
野球界最高の対決の場の指揮官両方が高松出身者(三原は厳密には神野村)だったのだ。「早慶戦の三原のホームスチール」という有名な場面があるのだが、ピッチャーは水原だった(笑)

子供の頃、「野球の名門=高松商」という刷り込みがあったのは、この先人たちの賜物だと思う。実際は高松商は1回戦か2回戦で姿を消してしまう状況だったんだが、いくらPL学園が優勝しようが所詮「新興勢力」、名門といえば高松商業であり、広島商業なのだ。(さすがに今はPLも名門だと思っております。「名門」と呼ばれる頃には大体、弱くなっているんですがね…)

水原が慶応大学に進んだ頃が、東京六大学野球の「全盛期」だと思われる。ヘタすると「野球自体の全盛期」がこの昭和1桁の時代だったかもしれない。いろいろ野球の歴史を勉強してくると、そんな気さえしてくる。
大正14年の早慶戦の復活(いろいろヒートしすぎて、早慶は長い間試合を行わなかった)から、東京六大学リーグが組まれ、初期の頃、慶応が圧倒的に強かった。その原動力になっていたのが全国制覇した高松商業出身の連中。

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なんと主力5人が高松商業出身者で、強いはずである(写真はその5人)。前列右が水原茂で、今回話題にしたいのが後列右端の宮武三郎。水原の2年先輩。

六大学野球全盛期、最高のヒーローがこの宮武三郎だったと思われる。未だに破られていないのが、慶応大学の歴代ピッチャー最高の通算勝利数38。(六大学全体の最多は社会人野球の重鎮になる山中正竹の48。ちなみに江川は47)
更に凄いのは通算本塁打数7本を残したこと。
「ピッチャーにしては多いね」
バカモーーーン!この時代の神宮は今よりものすごく広く、ほとんど本塁打が生まれなかった。早慶戦の有名な逆転本塁打の話は「ランニング本塁打」だし、フェンスオーバーすることは稀だった(神宮球場の柵超え本塁打1号も、場外本塁打1号もこの宮武!)。この記録は戦後まで破られず、ようやく長島茂雄の登場をもって破られる。
長島が8本。後に田淵が22本で大幅にこれを更新し、高橋由伸が23本で塗り替えた。長島と田淵の間で神宮球場が狭くなっている。だから本数が増えているわけだ。ちなみに東都の現時点の最高は井口さんの27本(笑)

宮武は剛球で38勝をあげる傍ら、7本ものホームランをかっ飛ばした。打球のスピードが日本人離れしていたらしく、彼のことを記載する書籍の記述を読むと「どんなバッターだったんだろう?」とワクワクしてくる。
卒業後は東京倶楽部というクラブチームで野球を続け、都市対抗野球で優勝。宮武が行くチームがどこでも「日本最強」になってしまう有様だった。実際、都市対抗の「黄金時代」は宮武が慶応から東京倶楽部に入団してきた頃だったとされるので、「日本史上最高の野球選手」といっても過言ではない存在だと個人的には思っております。

NPBでの記録がほとんど残っていないので、「伝説上の人物」になってしまっているが、1965年には早くも野球殿堂入りしているくらいだから、まだ記憶が残っている人が多かった時代には「宮武の殿堂入りは当然」という風潮だったと思われる。(1956年に49歳の若さで没してしまっているので、本人は殿堂入りの名誉を知ることは無かった・・・。)
NPBは1936年(昭和11年)にリーグ戦を開始している。この時阪急(後のオリックス)に初代主将として迎えられた。すでに29歳で選手としては下降線にはいっていた。今とは違って30代で野球をする人なんて、殆どいなかった時代。まだ海のものとも山のものともつかぬプロ野球の世界に身を投じるのは、六大学のスター的には難しい決断だったのかもしれない。
現役六大学の有名選手が卒業して、すぐ「職業野球入」するとセンセーショナルな”事件”になってしまう時代。選手集めは主に地方の「中等学校野球」の選手をお金の力で吸い寄せていた。或いは昔有名だったけど、盛りをすぎた選手を呼ぶしかなかった。野球雑誌には「六大学野球と職業野球が対戦したら、どららが強いか?」という記事が掲載され、真剣に論じられるくらい、職業野球のステータスは低かった…。今の独立リーグぐらいの扱いだったんですね、当時のNPBは。

阪急はグループの総帥・小林一三からして慶応出身だったので、スタート当初は「慶応閥」を活かした選手集めを行っていたようだ。なので慶応の二大巨砲、宮武・山下実を両獲り出来ている。後に阪急ブレーブスは地味なチームカラーになっていくのだが、スタート当初は水原・三原のいた東の巨人に対抗できるぐらい確実に「華やか」なチームであったことは間違いない。宮武は3年でNPBでのキャリアを終える。投打二刀流で黎明期のNPBにも爪痕を残している。
初代主将として迎えられた阪急での宮武の背番号は「1」。後藤まで脈々と続く流れの源流に宮武はいる。

讃岐うどんのお店で「宮武うどん」という伝説のうどん屋さんがあるらしい!野球も伝説なら、うどんも伝説の宮武ブランド。
他の店では出せなかった「ひやあつ」(冷たいうどんに、熱いだし)を初めて出したお店。継承者がいなく一度途絶えたらしいが、現在はその味を引き継いでいる人がいるようだ。
高松郊外だったので残念ながら食べに行けなかった…

街の中を歩いていると、男性2人と女性3人の等身大の写真を1階のショーウインドに掲げているビルがあった。名前も出ていた。一人の男性の苗字が「宮武」だった。
「へぇー、自分の会社の社員をこんな風に紹介している会社があるんだ〜。それなりの容姿の社員の全身写真を出して、会社のイメージアップを図っているのかな?」
なんて意外に思ったら、そこは山陽放送の高松支局が入っているビルだった。アナウンサーだったんですね…ローカル放送局のアナウンサー、こちらでは顔を見ても「誰?」状態ですが、きっと地元では有名なんでしょう。
山陽放送は岡山の放送局だが、香川は対岸の岡山の放送も入るようで、ホテルのTVでチャンネル回して地上波を確認したところ、NHK2つに民放が5つも映っていた。東京とほとんど変わりませんね、MXがないぐらいで。
「宮武さん」を帰ってきたからホームページで確認したところ、やはり「出身地=香川県」でした(笑)

参考: 宮武将吾 | RSKアナウンサー・パーソナリティ プロフィール

そこかしこに「宮武」さんがいる香川。次に行く時は、もう少し「宮武三郎」に触れるものを捜したい!

ちなみに宮武三郎の娘さんは、ロッテでも活躍した、NPB通算320勝の大投手・小山正明の奥さん!!この両人の血を受け継いだお子さんは野球やってないんですかね・・・凄いDNAだと思うんだけど。
小山もコントロールの良さばかり伝わっているが、実際ボールももの凄い速かったらしいですから!(小山も2001年野球殿堂入り)

当ブログでも「小山正明」に関しては、2度ほど「話題」に、そして「ネタ」にしております。(2008年と2009年に書いているので、最近読み始めた方は是非読んでみてください。こんな芸風です…)
背の高い選手は大成しない?/反カネヤン・ボビー精忠組
ムラ社会千葉崩壊の外交史【祝・井口獲得】



posted by mansengo at 08:50 | Comment(0) | 野球ミニ薀蓄
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